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平凡社の世界大百科事典(第2版)によれば、ジャーナリズムとはこういう定義である。
日々に生起する社会的な事件や問題についてその様相と本質を速くまた深く公衆に伝える作業。また,その作業をおこなう表現媒体をさしていう。歴史的には新聞や雑誌による報道・論評をつうじて果たされることが多かったので,転じて新聞・雑誌など定期刊行物を全体としてさす語として用いられることもある。ラテン語の,日々の刊行物をさす〈ディウルナdiurna〉に由来する。
上記の定義に照らして考えると、日本には真の意味でのジャーナリズムというものは、希少であることに気づく。日々、事件や問題を伝えるメディアは、もちろんある。しかし、「その様相」はまだしも、「本質」を伝えるメディアが極めて少ないのが現実だ。彼等メディアが伝えようとする「本質らしきもの」は、文字にされる、または言葉として発せられる以前に、特殊な色付けをされる。現実に文字になり、言葉になった時点で、イデオロギーまみれになっているのだ。
当然ながら、一次情報に接するマスメディアが社会全体から不必要とされる事態は、今後も訪れないだろう。しかし、メディアの在り様は、時代とともに変わる。守旧メディアは、放送波の事実上の独占と、宅配システムというなかば完成されたインフラによってその立場を不動のものとしてきた。しかし、インターネットという新しいツールが、彼らの地位を脅かし始めている。昨日引用した毎日新聞の社説は、「極論を排し、健全なフィルターを通して報道することの重み」は、衰退するメディアの悲鳴ともいえる。
当然ながら、この潮流は、既得権益を貪って来た側にとっては死活問題となる。日頃、「サイテーモーニング」と揶揄される偏向番組「サンデーモーニング」は、そんな相手にされなくなりつつあるジャーナリズムを代表する番組だが、番組内で青木理がボヤいているようだ。
レベル的には、飲み会でのぼやきと大差ない。メディアは自分らの視点で権力をチェックし、毎日ゴミのような報道が量産されている。決してチェックする機能が弱いのではなく、批判ありきで建設的な意見のないメディアの報道に、国民の多くは飽き飽きし、もう期待もしていないのだ。青木のような左巻きが暮らしづらいのは、保守長期政権が政治を動かし、メディアに情報を依存しなくなりつつある国民が、その政権を支持しているからに他ならない。暮らしづらいのは、彼ら左派に賛同者が少ないという単純な理由からであり、それは政権のせいでもなんでもない。

言論の自由は重要だ。しかし、その言論を封殺しようとしたのが、小川榮太郎氏を言論を尽くす以前に司法の場に引きずり込んだ朝日新聞や、杉田水脈氏を公開リンチで攻撃し、言語空間に制約を課した左派であり、彼らは青木にとってはシンパである。関口宏の「普通の人も偏りつつある」というのは、まさに笑止千万。自分が偏っているから、正常な人が偏って見えるだけの話だ。
(市民ではなく)国民ジャーナリズムに疑念を持ち始めているのは、ジャーナリズム自身が戦後の歴史のなかで自殺行為を重ねてきたからだろう。ぼやく前に、ジャーナリズムが主戦場とする言論を以て、視聴者、国民を説得してみろと言いたい。その努力をしないなら、彼らのセリフは飲み屋の愚痴と同等だ。
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