しかし首相は、米国との和解に言及し、「悔悟」という表現を用いたうえで、「痛切な反省を胸に歩みを刻んだ」「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない」とも述べている。戦後、日本がアジアで実践してきた貢献は、胸を張って語るべきものだ。(中略)
これ以上どんな言葉が必要というのだろうか。
今回は、米議会での演説のうえ、日米関係が主要テーマだったためか、首相は「侵略」や「お詫(わ)び」には言及しなかった。
しかし、今夏に発表される予定の戦後70年談話では、安倍首相の歴史観そのものが問われる。「侵略の定義は定まっていない」という立場のままでいいのか。
政治家が未来に向けてビジョンを語るのは大切なことだ。だがそのとき、植民地支配や侵略の被害にあったり、過剰な負担を押しつけられたりしている側の人々に寄り添う姿勢がなければ、説得力は生まれない。
今回の米議会演説は戦後70年の首相談話の先取りとも言われてきた。両者は目的を異にするものだが、国内外の関心を集めている首相談話の作成にあたっては、より明確で賢明な歴史認識を示す必要がある。
戦後50年の村山談話、60年の小泉談話にある「侵略戦争」「植民地支配」などのキーワードは口にしない代わりに、「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。思いは歴代総理と全く変わるものではない」と明言した。
こうした間接話法には賛否があろう。8月に出す戦後70年談話に向け、日本人の心情に沿い、アジアの人々の気持ちをくみ取った表現をさらに模索してもらいたい。
「植民地支配と侵略」を、「行い」という曖昧な表現に置き換える首相こそ、事実から背を向けていると言わざるを得ない。
首相は「(歴史認識に関する)思いは歴代首相と全く変わるものでない」とも述べた。それならばなぜ率直に「侵略」の事実を認め、「お詫び」を表明しないのか。
その上で「アジア諸国民に苦しみを与えた」と認めたが、戦後50年の村山富市首相の談話で明記した「侵略」「おわび」という文言は使わなかった。
使いたくないのが本音なのだろう。だが、中国や韓国から「謝罪がない」「詭弁(きべん)」と辛らつな批判も出た。さまざまな反応に耳を傾けるべきではないか。
一方で、村山談話の「侵略」「おわび」の文言はなく、従軍慰安婦問題にも直接言及しなかった。談話の継承を求める中国や韓国は「謝罪がない」と批判を強め、米議員の一部も「責任を逃れようとしている」と非難した。首相に付きまとう「歴史修正主義」の懸念が払拭できたとは言い難い。
首相は国会などで「村山談話などを全体として継承する」と繰り返し述べている。一方で「侵略」や「おわび」などをかたくなに避けるようなら、理解を得るのは難しい。
あらゆる戦場、あらゆる国で日本のため命を失い、傷ついた人たちに謙虚に頭を垂れるのが本来の追悼のかたちだ。同盟関係を強化したい国の戦死者だけ重視する気持ちが仮にあるとすれば、それは反省といえない。
首相は夏に発表する戦後70年談話では、「侵略」や「おわび」の表現を使いたくないのが本音のようだ。だが、「事実から目を背けてはならない」というのであれば、謙虚に歴史を直視すべきだろう。
ただ、首相は「侵略」や「おわび」の言葉は使わず、従軍慰安婦の問題にも直接には触れなかった。確かにこうした問題への言及は、米国では不要かもしれない。
しかし、アジアを相手にすれば、また違う語り掛けが必要だ。
語らなかった「謝罪」こそが、真に未来志向の扉を開くキーワードではないのか。米国だけでなく、アジア諸国とも誠実に向き合う姿勢を求めたい。
だが、演説の中に「侵略」や謝罪の言葉はなかった。「紛争下、常に傷ついたのは女性でした」と述べたが、「慰安婦」という言葉を使用することは避けた。歴史と真摯(しんし)に向き合う姿勢が感じられない。中国や韓国のメディアから「謝罪どころか自賛だけ」という批判が上がった。安倍首相はこのような批判を直視すべきだ。
だが、「侵略」や「おわび」を使わなかったことで、アジア諸国にどのような苦しみを与えたのかは分かりにくい。
同盟強化のためなら自責の念を強調するが、アジアへの配慮は最低限で構わない、と考えているのであれば、首相の歴史認識は極めて危うい。
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