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桑田佳祐が、年末のライブや紅白の中継で見せたパフォーマンスについて、公式に謝罪した。
謝罪文を読んだが、内容は、「感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった」とし、また、ちょび髭については「お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くない」と言い切っている。総じて平謝りの文章だ。
なんだか白々しいなぁと思うのである。桑田はラジオ番組で一連の騒動について改めて謝罪し、「ちょびひげというとコントの定番なんですが、そこをヒトラーと結びつける人がいるということに驚いている」と語っている。だけど、氏の思想は「ピースとハイライト」や、3月に発売される
「平和の鐘が鳴る」の歌詞で解ってしまったので、これらのお詫びにおける一連の釈明は全て「後付け」なのだろうと想像している。今以て桑田の政治思想が解らないという人は、
アベーロードを観てみることをお勧めする。
私は桑田氏の言動を批判はするが、表現者に対する批判であって、威圧すべきとは思っていない。テロに及んだフランスの風刺画は非常に下品なものだと思うのと同じに、桑田氏の「ポケットから勲章を出してオークション」という行為そのものが下品であり、天皇から授与される勲章をその程度にしか捉えていないのであれば、それを返上すべきであると考える。これがデモにまで及ぶということについては、100%の賛同は難しい。
ネットで盛り上がる桑田批判に対し、桑田擁護論もまた盛り上がっているようである。擁護派の主張の主な部分は、「表現の自由は担保されるべき」というもので、「自由な表現が抑制される」というものだ。アントニオ猪木を担いで残念な政党をつくった元みんなの党の松田公太も、「アーティストの表現の自由にプレッシャーが掛かるような国にしてはならない」と
ツイッターで語っている。彼等が一様に呈する懸念は、表現の自粛ということなのだろう。
しかし、こういう論を聞くにつけ、問い質したくなるのは、この「表現の自粛」は今まで全面的に認められてきたものなのかということだ。今までアーティストなり表現者なりが、自分の思想、信条を100%露わにし、直接的なメッセージを伝えることが、こと放送の世界で可能だったのかという、反対の疑問なのだ。
表現者の意図に関係なく、表現の自由と言うのはある種の制約の上に成り立っている。放送禁止用語がその最も顕著な例だが、私たちが普段目にし、耳にするものは、全て新聞界、放送界の検閲者のフィルターを通したものでしかない。一体いつ、新聞および放送界の検閲者に権威と権限が与えられたのかは時代をずっと遡る必要があるのだが、このフィルターは昔も今も、現実に存在しているのである。そこに、表現の全面的自由があるとは言い難い。
桑田擁護派の「表現の自由は認められるべき」という反論は、一般世論に向けられたものだろうがし、彼等は放送や新聞界の検閲と、それによって強いられる自粛に対して、いっぺんでも声を発したことがあるのだろうか。また、自由を声高に主張する戦後民主主義信望者やリベラル派が、「差別はよくない」という理由で今まで行ってきた数々の言葉狩りの結果によって表現の自由が抑制されたきた事実を、彼ら自身はどう受け止めるのだろう。
「与えられた自由」という土俵の上だけで「自由」を語るのは、ときに滑稽ですらある。特に、言葉狩りを重ねてきた左翼・リベラル派が「表現の自由」を主張する滑稽さを、私なんぞはシニカルに見てしまうのである。
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