江藤 知識の取得というものが、ことごとく政治的な文脈で翻訳されるような風潮をつくったのは、ひょっとすると戦後の教育ではなかったでしょうか。
小堀 日教組教育のしからしめるところかもしれませんね。たとえば例の南京虐殺の事件も、あるいは北方領土の問題でも、その真相はこうで、いまの高校の歴史教科書に書かれていることは違うんだよ、とわれわれがいうのは、だからわれわれが直ちにどうすべきかということをいっているわけではない。とにかく事実を把握してもらうことが大事なんであって、それによってたとえば新しい皇国史観に向けて扇動しようとか、国粋主義のイデオロギーを吹き込もうなんていう気持ちは毛頭ないわけです。われわれとしては、とにかく事実を知ってもらいたい。そして事実を踏まえて自分の判断を持つということが大事なんだというセンスを養ってもらいたい。それだけなんですね。
江藤 まさにおっしゃるとおりですね。私ども教師の立場に自己限定し教室で話す場合、それしかいえない。それ以上のことはいえない。国によっては思想教育などがカリキュラムに入っている国もあるかもしれませんが、少なくとも日本の大学で教職についているわれわれは、現在の知見の及ぶ限りにおいて最も曇りの少ない事実を学生に提示して、個々の学生がそれをどう判断し、そこからどのような思想を導き出すかについては、われわれは一切関知しないという態度でなければならないし、またそうでなければとても職を全うすることができないと思います。
小堀 極限してしまえば、歴史というのは正確な年表に尽きるという気がしますね。
江藤 そうです。
(以上、抜粋。)江藤淳著 「同時代への視線/「大東亜戦争」と「太平洋戦争」より
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