時は忌まわしき1995年。自社さ政権を率いた村山富一首相の社会党が、参院選で惨敗し、惨敗した夜に自社さの三党で党首会談を開く。村山は首相を辞することを表明し、時の自民党総裁であった河野洋平に政権を委ねる考えを伝えた。
河野洋平としては「しめた!」と思っただろう。首相の座が転がり込んでくるのだ。
党首会談は休憩に入った。そこで河野は、森喜朗幹事長に党内の根回しを依頼した。森は党内の意向を打診したが、経世会、なかでも会長の小渕恵三が絶対反対を表明したのである。
「ロッキード事件で自民党が一番苦境にあった時、自民党の歴史的使命は終わったと後足で砂をかけるように離党した。河野首班なら本会議での首班指名選挙に同調しないこともある」と、強硬姿勢を示した。
これが、河野洋平首相が誕生しなかった真相だ。
森喜朗は「あの日ごろ温厚な恵ちゃんが、顔色を変えてまくしたてるんですよ。こりゃダメだと思い、これを河野さんに伝え、河野さんから村山さんに続投要請ということになったんです。」と語っている。
この一件は、故三宅久之氏の「書けなかった特ダネ」に載っている。
バブル時代、朝まで生テレビの外国人労働者受け入れがテーマの放送だった。
舛添要一は、朝の3時過ぎかな?みんなが眠くなったころ、 唐突に、すごい感情的になって怒鳴り散らしてケンカ腰で
「日本の文化習慣を完全にマスターした朝鮮人もいるんだ。それが私だ。」
と自分でカミングアウト
— Toyo Ohashi (@Toyohawaii) 2014, 1月 7
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