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私的憂国の書

民主主義を希求しつつ、日本における戦後民主主義を否定する。真の主権回復は戦後レジームの打破から生まれる。
私的憂国の書 TOP  >  2013年08月14日

朝日新聞社説「靖国参拝 政教分離を忘れるな」に反論する

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 朝日新聞に関しては、“来るところまで来たな”という印象を持つ。朝日は10日、レイシストしばき隊を主宰する野間易通のインタビューを長々と掲載した。しばき隊なる団体の主張には興味がないので良く知らないが、野間は単なる反日活動家であって、素行から判断すれば、単なるチンピラといったところだろう。少なくとも、大新聞が持つべき平衡感覚としては、在特会の主張も等しく取り上げ、両論併記とすべきではないのか。朝日のクオリティについては論ずるまでもないが、やることが“赤旗以下”になってきているように思う。これで「受検に強い朝日新聞」を謳うのだから、受験生が哀れである。

 日本に必要がない(というより消えてほしい)企業をひとつ挙げろと言われたら、私は躊躇なく朝日新聞と答える。サヨクメディアは数あれど、この新聞社ほど罪深き存在は無い。その朝日新聞は13日の朝刊で、「靖国参拝―政教分離を忘れるな」と銘打った社説をぶった。だが、ジャーナリストの山村明義氏によれば、朝日新聞東京本社は、中央区築地に鎮座する「波除稲荷神社」を氏神神社として崇敬し、幹部並びに社員が参拝しているという。毎年の例祭などお祭りには朝日の役員が必ず参加し、選挙報道の成功祈願、自社の不祥事のお祓いには、局長や部長クラスが神職による祈祷を、長年にわたって受けているということだ。自分たちは神社に頼りながら、政治家の心の自由にはずけずけと土足で上がりこむのが朝日である。

 さて、本題だ。まずは社説の抜粋から。

靖国参拝 政教分離を忘れるな (2013年8月13日 朝日新聞社説)

 首相や閣僚らの靖国参拝は、憲法の政教分離原則に照らして許されない疑いが強い。
 小泉元首相の靖国参拝を違憲と訴えた訴訟で最高裁は06年、原告の請求を退けた。これは訴えの利益を認めず、憲法判断を避けたにすぎない。地裁、高裁では違憲の指摘があった。
 憲法は、信教の自由を保障する一方、宗教団体が国から特権を受けることや、国やその機関による宗教的活動、宗教組織への公金支出を禁じている。
 それが明記されたのは、戦前・戦中、神道が軍国主義の精神的支柱となり、国のための死を正当化してきたからだ。
 とりわけ靖国神社は国家神道の中心的施設だった。戦後は一宗教法人になったが、国のために命を落とした人を神としてまつる宗教施設であることに変わりはない。
 国家の要職にある人々が参拝すれば、靖国神社を特別扱いしている印象は免れない。まして大々的に集団で赴くような行為は、政治パフォーマンスといわれても仕方あるまい。(以上、抜粋)


 この社説で朝日が結論として主張するのは、宗教色のない国立追悼施設の必要性なのだが、日本人の宗教観を舐めるのもいい加減にしてほしいものだ。朝日が宗教を持ち出したので、江藤淳の論文「生者の視線と死者の視線」を紐解きながら、朝日の主張に反論してみる。

靖國神社

 まず、憲法は万能ではないということだ。憲法以前に、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の実際の在り方(国体)があるわけで、憲法はその国体の上に乗っかっているだけである。つまり、憲法は、国体の一部分であって、決して全体ではないのである。憲法は国体とか国柄を規定し切れるものではありえない。国の在り方、民族の生き方、また、死者への遇し方は、日本民族の文化の問題であって、それは政治問題や法律問題で議論するイシューではない。

 江藤はこう書いている。

 特に靖国神社公式参拝問題のように、国がどのように戦歿者に対する態度を決定するかというがごとき問題の場合には、主として議論の対象にしなければならないConstitutionとは、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んできたかということの積み重ね以外のものではあり得ない。それは明治憲法典でもなく、いわんや現行憲法典でもあり得ない。つまりこれは広い意味で、そして深い意味で、日本文化の問題なのです。その文化の文脈の中で、死者はどのように祭られ、生者は死者をいかに過してきたか。それがそのまま今日でも、滞りなく行われるのかどうかということが、根本問題のはずではありませんか。それに較べれば、現行憲法典の解釈学などは片々たる枝葉末節にすぎない。政治課題として考えても、日本文化の持続をどう維持し、かつ発展せしめるかということこそ、政治家の基本的な使命のはずではありませんか。


 そもそも論だが、現行憲法第二十条で規定される政教分離とは、混じりけのない米国直輸入ものだ。日本の文化など良く知らない占領軍が書いたのだから、矛盾が出てくるのは無理もない。では、米国憲法第一条の政教分離とはなにか。それは、米国独立当時の十三州において、キリスト教各宗派間に複雑な勢力関係があり、そのなかで政治的安定を確保するために、国がある特定の宗派に優越的な地位を与えないということを規定した条項にすぎない。ごく短く集約すれば、米国は国教をもたないという宣言である。これが日本に輸入された時、政治と宗教の厳格な分離にすり変わった。これらの相容れない論点に立って政教分離を語るから、答えが出るはずがないのだ。

 朝日新聞は、「国家の要職にある人々が参拝すれば、靖国神社を特別扱いしている印象は免れない。」と書いている。しかし、敢えて言えば、靖國神社は当然、“特別”なのである。先帝が8回も御参拝になっていることもあるが、靖國は、古事記や日本書紀の神々をまつる神社ではない。全国の神社を束ねる神社本庁に属したこともない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断によるものである。戦後、GHQによる宗教法人令によって、やむなく宗教法人に登録をしたが、これは占領下で占領者が神道を抜本的に改変しようとした意図のもとで行われたことであり、日本人の神社に対する感覚では、本来あり得ないことなのだ。

 日本を米国製の鋳型にはめた戦後体制は、日本の心にまで立ち入ろうとして工作だった。だが幸い、戦前と戦後の紐帯は失われておらず、明日も猛暑の中、多くの心ある日本人が、靖國神社を参拝することと思う。私も例年通り、九段の坂を登る予定だ。江藤淳の「生者の視線と死者の視線」は大変勉強になる論文で、私の靖國神社参拝の拠り所になっている。政治家の中では、麻生現副総理が7年前に書かれた、「靖国にいやさかあれ」が実践的な靖國論がある。副総理の文はネットで読めるので、是非この機会に一読いただければと思う。


新版靖国論集―日本の鎮魂の伝統のために
新版靖国論集―日本の鎮魂の伝統のために


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