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私的憂国の書

民主主義を希求しつつ、日本における戦後民主主義を否定する。真の主権回復は戦後レジームの打破から生まれる。
私的憂国の書 TOP  >  2013年04月03日
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近隣諸国条項と教科書の自主検閲

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3月28日に、「日本の教育における負の遺産 ~ 宮澤談話・近隣諸国条項」というエントリーを上げ、宮澤喜一元総理について書いた。
この宮澤喜一については、もうひとつ、興味深いエピソードがある。
昭和から平成にかけて、保守論壇の重鎮であった江藤淳が、吉田茂総理の懐刀だった白洲次郎との会話を明かしている。

江藤 「白洲さん、宮澤さんはずいぶん早くからご存知でしょう」
白洲 「可愛がっていたけれど、だめだね。ちっとも伸びてないね」
江藤 「そうですか。どうしてだめなんですか」
白洲 「宮澤は、あれは“銀座のタクシー”だよ。銀座のタクシーの後からついていくと、ヒュッと尻を振って自分だけかわして行っちゃうだろう。ついて行った者はえらい目に遭うんだよ。」


江藤は、「つまり、信頼して後ろからついていくと、ヒュッとかわされて目の前の車と衝突するのはこっちのほうで、向こうはいつの間にかいなくなってしまう。そういう男だから宮澤には誰もついていかない。」という白洲のコメントを添えている。

故人のことを悪く言うのは本意ではない。だが、その故人が残した歴史が、今を生きる我々、特に子どもたちに負の影響を及ぼすならば、その批判は許されると考える。その負の影響、負の遺産が、28日に書いた近隣諸国条項だ。この近隣諸国条項の見直しを掲げて政権についた自民党の動きについて、朝日新聞がまたまた雑音を出し始めた。4月2日の社説だ。少々くどいが、全文を引用する。

近隣諸国条項―成熟した国の姿を示す (朝日新聞)

 近現代史や領土の問題をどう教えるべきか。教科書検定の結果が公表されるこの季節、毎年のように議論がくり返される。
 とりわけ今回は、自民党が総選挙で「近隣諸国条項の見直し」を掲げて政権についてから初めて出される検定だった。この機会に改めて考えたい。
 この条項は検定基準の一項目であり、アジア諸国との近現代史の扱いに「国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」をすると定めている。
 これが外国からの教科書への口出しをしやすくし、教科書を「自虐的で偏向した」内容にしているとの批判がある。
 たしかに教科書の書きぶりを他国からあれこれ言われるのは気持ちのよいものではない。
 しかし、そもそも子どもたちに歴史の光と影の両面を教え、アジアに限らず世界の国々を尊重する態度を養うことが大切なのは当然である。
 わが国は国際協調を重んじ、独善に陥ることなく、客観的に歴史を教える。この条項は実際の検定基準としてより、内外にその姿勢を示す宣言として働いてきた。もちろん、そこには戦前の教育への反省が込められている。
 条項を削れば、近隣諸国にわざわざ「配慮をやめる」とメッセージを送る意味を帯びる。
 また、条項があるゆえに日本の教科書が外国の言いなりに書かれているとは言いがたい。
 たとえば、今回は尖閣諸島が日本の領土とわかるようにとの意見がつき、「沖縄県に所属する」と加筆された例がある。
 領土の記述には近年、中韓から抗議が繰り返されているが、文部科学省はそれを受けて書きかえを指示してはいない。
 文科省によると、条項に基づいて検定意見がついたのは確認できるかぎり91年度が最後で、今回もなかった。
 この条項は81年度検定で「華北を侵略」が「華北に進出」に書きかえられたと朝日新聞を含む多くのメディアが報じ、中国などから抗議を受けてできた。実際は書きかえはなく、事実誤認から生まれた条項だという見方が見直し論の背景にはある。
 誤報は反省しなければならない。ただ、「侵略」を「侵入」「進出」などに変えた事例はこの年や過去の検定で他にあったと文科省は説明している。条項を作った当時の判断までが誤りだったとはいえない。
 的外れな抗議があったときはきちんと学説をふまえて説明すればよい。冷静で成熟した国の姿を示せば、子どもたちの誇りはおのずと育まれる。


まず、何をして成熟というのだろう。
朝日のいう成熟というのは、近隣諸国の罵詈雑言に対し、黙っていることなのか。
これは“憲法9条による平和主義”という考え方と、発想がよく似ている。自分たちさえちゃんとしていれば、その想いは“公正と信義”がある諸外国に通じるという、いわば観念論だ。こんな空想に騙される人が、どれほどいるのだろうか。

朝日は、「条項があるゆえに日本の教科書が外国の言いなりに書かれているとは言いがたい」とし、1991年以降、条項に基づいた検定意見が出ていないことを理由に、この条項を維持すべきだと主張する。しかし、問題はそれだけではないのだ。

私は教科書の編纂というのが、戦後のGHQが日本に強いた検閲と良く似ていると思っている。
3月15日に書いたとおり、GHQの検閲は、連合国の批判を一切封じ込めた上で、言論、メディア等の自由な活動を国民から隠した。メディアは当初抵抗したが、検閲に通らないと生業を失うため、応じざるを得なくなった。だが、その後メディアは、自主検閲に移行するのである。“検閲に通るように”自分たちで工夫し、GHQの検閲の基準に合わせて言論を編集したのである。つまり、GHQが指導しなくても、日本のメディアは自主的に検閲というシステムにすり寄っていったのである。このシステムは今もマスメディアのなかに生きている。

同じことが教科書にも言えるのではないか。
勿論、教科書には検定基準がある。検定を通らないと出版できず、実際の教育現場で使われない(売れない)から、当然ながら検定基準に合わせた編集をする。だが同時に、その検定と同じシステムの中に近隣諸国条項があり、出版会社が“自主的”にその基準を組み入れた上で、教科書を編集するとすれば、戦後の自主検閲と同質のシステムが生き続けることになる。

くどくどと書いたが、要は国の栄辱の問題なのである。
自らカードを渡すことによって、彼等はそれを酸素とするのである。
相手国が近隣諸国条項を正確に把握しているとは思えない。日本に付け入る隙があれば、彼等は実際に付け入るのだ。そしてそれを契機に、国際社会に「日本の非道」を訴え、日本の立場を貶めて行くのである。
近隣諸国条項は、そのカードの一枚だ。その昔、「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」というCMがあったように、こういう異臭を放つものは、ひとつひとつ、丁寧に根絶すべきなのである。

教科書問題では、支那や朝鮮からいわれのない言いがかりをつけられて、内政干渉を受け続けている。当時、宮澤喜一がいた首相官邸は、日本の立場を守るどころか、むしろ特亜の尖兵になり代わって、文科省を攻撃した。だから過日のエントリーで、私は宮澤喜一を、最も許せない戦後政治家のひとりに挙げた。

「教科書の書きぶりを他国からあれこれ言われるのは気持ちのよいものではない」という程度の認識しか持たない朝日新聞が、世論を代表しているとは思えない。むしろこの一文は、朝日のカモフラージュであるような気もする。彼等の本音は、「徹底的に日本を貶めよ」ではないのだろうか。この社説で唯一朝日が勇み足を踏んだのは、日本に成熟を求めたことで、心の故郷である支那や朝鮮を“未熟”と相対化したことだ。


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