来春から使われる中学校の教科書が県内の教育委員会で選定作業の佳境を迎えていることに絡み、上田清司知事は16日の定例記者会見で、「間違っても『(初代首相の)伊藤博文射殺』などと書いている教科書を選んではいけない」などと述べ、歴史・公民教育についての私見を披露した。
上田知事は「諸外国での歴史教育とは、自国の歴史や事実関係は正しいと教え、国民に自信と誇りを持たせるものだ」と強調。その上で「日本は逆で、誇りを失い、自信をなくさせる教科書ばかりだ。しかし、そうでない教科書も出てきた。今まで日本の歴史と誇りを傷つけてきた教科書もましになっている」と述べた。
また、混乱を避けたいあまり、教育委員会が無難な内容の教科書を採択する傾向にあることについては「過去にいたノイジーマイノリティ(声高に主張する少数の人々)を目の当たりにしている方々は、時としてそういうのを恐れるきらいがある。事務方サイドの提案をそのまま受け入れて、自分の判断をしない教育委員もゼロではない」と苦言を呈した。
さらに「間違っても『伊藤博文射殺』と書いている教科書を選んではいけない。日本国の英雄を日本人自身が『射殺』と書いてどうする」と続けた。
一方、公民教科書については「制度がこうなっているという記述が多い。社会はかくあるべしということを、もう少し思い切って出していくことが大事ではないか。『私』より『公』の方が大事な場合があることを書かないといけない」との見解を述べた。
伊藤博文は朝鮮を侵略した悪の象徴として、安重根は正義の象徴として、韓国人は一方的な見方を教え込まれてきた。
〈中略〉2000年になって、韓国で初めて伊藤博文の評伝が一冊翻訳出版された。(『伊藤博文』図書出版・中心)。この本には伊藤博文が朝鮮統監職から退いた後も、韓国皇太子である英親王(ヨンチンワン)の太子師(皇太子の教育係。少師は総理大臣であった李完用)であった事実が記録されている。また、伊藤博文が安重根に殺害された後、朝鮮八道(京畿、忠清、全羅、慶尚、黄海、平安、咸鏡、江原の八つの行政地域)の儒林代表らが一堂に会し、伊藤博文の治績を称える集会を開き、銅像を建てた。そして、各道別に謝罪団を結成して鞭をもって日本へ渡り、鞭で打たれることを自ら買って出たという。伊藤博文が死亡した後、韓国王室は文忠公という諡号(死後に贈られる称号)を与え、彼を追慕したという事実も書かれている。
当時、カトリック朝鮮大教区のミューテル主教が日記で伊藤博文の治績を賞賛し、安重根の「許しの秘蹟」を拒否した事実から、私たちは当時の朝鮮人の伊藤博文に対する感情が今日のものと大きく異なることを推測できる。実際、日露戦争後に伊藤博文が朝鮮を訪問すると、朝鮮ではすべての政治家と官僚が歓迎団を構成して仁川港まで出迎えに行った。仁川から京城までの沿道をいっぱいに埋めた朝鮮人が、日章旗を振って伊藤博文を歓迎するほど、彼は人気のある政治家だったのである。
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