(前略)最近では民権派と称する人たちが注目を集め、その民権派が「民」という字を使って民主党という政党を作った。彼等は何かといえば、市民が大切だと言い、国民はどうでもいいと言う。では、国はどこにあるのかと聞くと、個人の人権を守るだの、ネットワークで穏やかなつかがりを作るだの、そういうことばかり言っている。いったい国の役割をどう考えているというのか。
実は、こうした事態に対する危惧についても、『皇室論』とほぼ同じ時期に、福沢諭吉は指摘しているのである。
『時事小言』の諸言に、福沢はこう書いている。
《記者(注・福沢)は固(もと)より民権の敵に非ず(略)民権の伸暢(しんちょう)を企望し、果して之を(略)得たり、甚だ愉快にして安堵したらんと雖も》
つまり、民権は信用すると。しかしながら、
《外面より国権を圧制するものあり、甚だ愉快ならず》
国は国際社会のなかにあるのだと言っている。そしてさらに、
《俚話(りわ)に、青螺(さざえ)が殻中に収縮して愉快安堵なりと思ひ、其安心の最中に、忽(たちま)ち殻外の喧嘩異常なるを聞き、窃(ひそか)に頭を伸ばして四方を窺へば、豈(あに)計らんや、身は既に其殻と共に魚市の俎上に在りといふことあり。国は人民の殻なり。其維持保護を忘却して可(か)ならんや》
まさに国際社会という魚市の俎上にあるのが現在の日本ではないか。そして、実は、いまこの青螺の殻と身の区別が重要なのである。この区別に従えば、民権派と称する人たちが主張するように国は他国に対し、自国民の所業について謝ったり、謝罪を受け入れたりすることなどできない。国はサザエの殻であって中身ではないからだ。
もし仮に、国があらゆる国民の価値観と人情のすべてをコントロールし得る、またしなければならないとする。その前提に立てば、国が他国に対し、国民の所業について謝ることはできるかもしれない。
しかし、これは全体主義的な思考であり、議会制民主主義の上に立つ国政とは、元来そういうものではあり得ない。
(中略)
もとより国が国民一人ひとりの価値観を代表することなどできはしない。それは内心の問題であり、そうでなければ個人の尊厳などというものは存在し得ない。その根本義を、個人の尊重をかかげ民権派を称する人たちが、なぜ理解できないのだろうか。
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